私が【この町】を選んだ理由 -1/3-
Episode 1 「地域でただ1⼈の医師」としての覚悟を決める
美しい⼭々に囲まれ、清⽔流れる佐賀県唐津市七⼭。この地域で唯⼀診療にあたる医師が、阿部智介先⽣です。スキンヘッドにジャージ姿という⼀⾒ユニークな⾵貌の阿部先⽣は、「いきかた」を⼤切にした地域医療に尽⼒。その姿勢が評価され、地域医療に貢献した医師に贈られる「やぶ医者⼤賞」の、⺠営医療機関の医師では数少ない受賞者です。なぜ、阿部先⽣は七⼭で医師として⽣きる道を選択したのでしょうか?第1回⽬は、その原点と覚悟に迫ります。
⽗の背中を⾒て育ち、⾃然に医師を志す
唐津市街から⾞でおよそ1時間。⼭あいに分け⼊った先にある七⼭は、その名の通り7つの⼭に囲まれた集落です。2006年に唐津市と合併するまでは、東松浦郡七⼭村という地域でした。3本の滝が合流する地点に位置し、その1つである滝川川にある観⾳の滝は「⽇本の滝百選」にも選ばれています。主な産業は農業と林業。⼈⼝は1,656⼈で、⾼齢化率48.6%、⽣産年齢⼈⼝率は42.0%(2025年10⽉現在)と、豊かな⾃然に恵まれる⼀⽅で、過疎化が進む典型的な中⼭間地域です。そんな七⼭に、医療法⼈慈孝会 七⼭診療所があります。
七⼭村(当時)に診療所が開設されたのは1981年、私が⽣まれた翌年です。⽗‧阿部孝昭が阿部医院として開設しました。当時、⽗は福岡県済⽣会⼋幡総合病院で外科医として勤務しており、私もそこで⽣まれました。⽗の出⾝は七⼭村に隣接する浜⽟町で、当初はそちらで開業する予定だったそうです。しかし、七⼭村が無医村になるという事情から声がかかり、この地で診療所を構えることになりました。そういう経緯もあり、私にとって七⼭は紛れもないふるさとです。
⽗は、七⼭でたった1⼈の医師として、どんな症状の患者さんも断ることなく受け⼊れていました。その姿が私にとっての医師の原点です。医師とはこういう存在なのだと、幼いながらに思っていました。そんな⽗の背中を⾒て育った私は、早くから、いずれは⽗の後を継ごうと考えていました。⼩学校の卒業⽂集でも、「医者になって七⼭に戻って来る」と書いています。
⽗は、私が医師を志すことを⼤変喜んでいましたし、それを望んでいました。しかし、環境の過酷さや⼈⼝減少による収益の悪化などの観点から、七⼭での医療を引き継ぐことには反対の姿勢でした。親として、医師を志すのはうれしい⼀⽅で、苦労はさせたくないという⼼境だったのだと思います。ただ、私は誰に強制されたわけでも、プレッシャーを感じていたわけでもありません。この場所で医師として働くことは、私にとってごく⾃然な未来でした。

できるだけ早く⼀⼈前の医師になるために
そんな私は⾼校時代、少しやんちゃをしていた時期があり、医学部など到底受からないという状況もありました。それでも⼆浪の末、東京医科⼤学に合格。⼤学では、医師を志す仲間たちの多様な動機や価値観に触れましたが、「⽗の後を継ぐ」という思いが揺らぐことはありませんでした。むしろ東京のど真ん中で⼤学⽣活の6年間を過ごしたことで、⾃然が少なく⼈ばかりが多い都会は⾃分に合わないこと、そしてふるさと七⼭の良さを改めて実感することになります。
⼤学5年⽣の頃から、⽗の体調が徐々に崩れ始め、⼊退院を繰り返すようになりました。診療所は、⽗の出⾝校である久留⽶⼤学の医局の先⽣⽅の⽀援で何とか維持されていましたが、いつまでもその状態を続けるわけにはいきません。できるだけ早く⼀⼈前の医師となり、七⼭へ戻ること。その重要性を強く意識するようになりました。
地域で唯⼀の診療所を担う以上、内科だけでなく、⽿⿐科や眼科なども含めてオールマイティに診る⼒が求められます。また、少しでも⽗の近くにいたほうが良いという思いもあり、卒業後はすぐに東京を離れました。初期研修は福岡県済⽣会⼋幡総合病院で、後期研修は佐賀⼤学医学部附属病院の総合診療部で⾏いました。福岡県済⽣会⼋幡総合病院はかつての⽗の勤務先でもあり、⽗が歩んだ道を⼀度は⾃分も経験したいという思いがあったのです。また、今後を⾒据え、地元‧佐賀⼤学とのつながりを築きたいという思いもありました。
実は、臨床実習を通じて糖尿病診療に興味とやりがいを感じ、⼀時は糖尿病専⾨医の資格を取得するまで東京で学ぼうと考えたこともあります。しかし、その後の歩みや出会いを振り返ると、このときの選択は間違っていなかった。今ではそう確信しています。
医業継承後、突然やってきた「その⽇」
後期研修を終えた2010年、⽗が⻑期⼊院することになり、30歳になった私は七⼭の診療所へと戻りました。⼀般的に、医業継承は地域の患者さんとの関係づくりが⼤きな課題だと聞きますが、私の場合はかなりスムーズだったと思います。10年以上七⼭を離れていたとはいえ、住⺠の皆さんは、私のことを昔から知っています。幼い頃から診療所の周りをうろちょろしていた私は、地域の皆さんになにかと⾯倒を⾒てもらっていましたし、後期研修中には週1回程度のペースで診療に⼊り、少しずつ医師として関わってきました。そして何より「大先生の息⼦さん」という存在だったことが⼤きかったと思います。七⼭の皆さんの⽗への信頼があったからこそ、私も⾃然に受け⼊れてもらえたのだと感じています。
⼤先⽣と呼ばれていた⽗は、まるで「Dr.コトー」のようで、何でも1⼈でこなしてしまう私など⾜元にも及ばない医師でした。私が診療所に戻ってからも、何かあれば無理を押して出てきてくれたので、正直なところかなり⽗に⽢えていたと思います。しかし、「その⽇」は突然訪れました。
診療所に戻って1年半が過ぎた頃、娘の1歳の誕⽣⽇を迎え、⽗と⺟も⼀緒に餅踏みの祝いをしました。その翌朝、私がいつものように診療所へ出勤すると、⺟から「お⽗さんの様⼦がおかしい」と告げられたのです。急いで診察すると、呼吸状態が悪く発熱もあります。レントゲンでは、肺が真っ⽩でした。肺炎を疑い、すぐに病院へ搬送したところ、搬送先の主治医からは「肺炎で2週間くらいの⼊院になるでしょう」と説明されたそうです。
⼊院⼿続きを済ませ、⽗とも⾔葉を交わした⺟が着替えを取りに帰ってきてすぐに、急変の連絡が⼊りました。⼩腸腫瘍の⼿術を終えたばかりだった⽗の体は、すでに限界だったのでしょう。駆けつけたとき⽗は⼼肺停⽌状態で、蘇⽣治療を受けた後で、気管挿管され⼈⼯呼吸器につながれていました。反応はありません。医師である私には、これが何を意味するか、⾔われなくても分かります。「これから先、回復の⾒込みがない状態で延命措置を続けるべきか」「⽗はこの状態を望むのか」。⾃問⾃答を繰り返し、主治医とも話しましたが、正解など⾒つかりませんでした。
数時間後、⽗の⼼臓は⽌まり、そのまま息を引き取りました。享年70歳でした。⼼肺停⽌から蘇⽣され、かろうじて⼼拍が戻ったものの、再び静寂へ。時計の上ではほんの数時間にすぎません。しかし、悩み苦しんだ私にとっては永遠にも似た⻑さでした。

スキンヘッドは覚悟と⾃⾝への決意表明
⽗が亡くなった⽇、私は髪を剃り、スキンヘッドになりました。それは、⽗の存在に⽢えていた⾃分への決別であり、今後は⾃分が七⼭の医療を背負うのだという覚悟を、⾃分⾃⾝に⽰すための⾏為でした。これからは、⾃分に構っている時間があるなら、その分を仕事に使おうとも思いました。実際、髪がなければ床屋へ⾏く必要もなく、⾵呂も短時間で済みます。思った以上に楽で、今となってはもう伸ばせません(笑)。

ただ、全てを1⼈で担う現実は、想像以上に厳しいものでした。特に頭を悩ませたのは、医療と経営とのバランスです。⺠営の診療所である以上、利益を無視することはできない。しかし、診療報酬の点数ばかり意識していては、⾃分が理想とする医療は実現できない。この葛藤が、所⻑として最初に直⾯した壁でした。この問題にどう向き合い、どのような結論に⾄ったのかは、次回詳しくお話しします。
阿部 智介 先⽣
医療法⼈慈孝会 七⼭診療所 所⻑
2006年、東京医科⼤学卒業後、福岡県済⽣会⼋幡総合病院にて初期臨床研修。2008年より佐賀⼤学医学部附属病院 総合診療部勤務を経て2010年より故郷に戻り、阿部医院勤務。2012年、先代院⻑逝去に伴い同診療所を継承。2013年、医療法⼈慈孝会七⼭診療所へ変更、所⻑。ACPの普及や在宅医療及び介護の体制構築に努めている。唐津東松浦医師会理事。