私が【離島】を選んだ理由 -1/3-
Episode 1 専門医志向だった私がへき地医療と向き合うまで
⼀⼈の医師の選択を通じて、医師としての⽣き⽅と医療現場のリアルに光を当てる本シリーズ。第1回は、三重県⿃⽻市の離島、神島で診療にあたる⼩泉圭吾先⽣にお話を伺いました。2009年に神島診療所に赴任した⼩泉先⽣は、途中、へき地医療をより深く学ぶために島を離れましたが、2015年に再び神島へ戻り、離島医療に尽⼒しています。「もともとは感染症医を志していた」と語る⼩泉先⽣が、いつ、そしてなぜ【離島】を選んだのでしょうか。
原点は、往診に来た“おばあちゃん先生”
三重県鳥羽市の佐田浜港(鳥羽マリンターミナル)から定期船で40分。周囲約4kmの小さな島、それが、鳥羽市に属する4つの有人離島のひとつ、神島です。島全体が山地のため高低差が大きく、港から山腹にかけて階段状に家々が並びます。神島診療所は、桟橋の目の前。神島開発総合センターの一角にあります。診察室の窓からは、発着する船を間近に望むことができます。
私が神島診療所に赴任したのは、医師になって7年目でした。初代所長の奥野正孝先生が異動されることになり、後任として赴任することになったのです。ただ、もしこの話がこのタイミングで来ていなかったら、神島には来なかったかもしれません。というのも、以前の私は、へき地医療から離れたい、と考えていたからです。
私の医療の原点は、幼いころ曾祖母のもとへ往診に来ていた“おばあちゃん先生”ですね。また、私の家は母子家庭で経済的に余裕がなかったこともあり、将来はしっかり稼げる職業に就きたいと考え、医学部を志望しました。浪人時代、本屋さんで偶然手にとった自治医科大学の赤本で、修学資金貸与制度によって学費が免除になることを知り、「ここしかない」と受験を決意。そんなきっかけで自治医大に進学したため、当初はへき地医療に特別な思い入れがあったわけではありません。むしろ、いずれは都会の大病院で働きたいと思っていました。

へき地医療の魅力への目覚め
大学卒業後、初期研修を終えて最初に勤務したのは、三重県南部・度会郡南伊勢町の小病院でした。スタッフの皆さんも住民の方々も本当に温かく迎えてくださったのですが、当時の私は、診療から事務作業に至るまで、医療に関わる全てを自分で担うことに煩わしさを感じていました。もっと大きな病院で専門分野に集中したい、そう思っていたのです。今振り返れば、未熟さ以外の何ものでもありませんが、入職5年目に1年間の研修期間をいただくと、待っていましたとばかりに大学の本院に戻り、念願の感染症科での研修を始めました。
ところが、時間が経つにつれて、南伊勢町を懐かしく思うようになってきたのです。感染症科は完全に専門分化した環境で、仕事量も多く、患者さんを次々と瞬間的に診ていく毎日です。そんな毎日はとても充実し、楽しく、刺激的でしたが、自分には「何かが違う」と感じるようになりました。
一方で、へき地医療というのは、診療に関わる全てに携わり、ご家族も含めて患者さんを長く見守り、ときには地域の課題にも関わる。そんな仕事のしかたが、自分に向いていたのではないか。嫌だと感じていた南伊勢町での日々を、実は無自覚に楽しんでいたのではないか。そのことに気付いた私は、これまでの態度を反省し、南伊勢町に戻る決心をしました。するとその1年後、まるで天から降って湧いたように神島行きの話が舞い込んできたのです。
それは、2008年の暮れ、三重県人会の忘年会でのことでした。大学の先輩や県職員の方々、そして奥野先生に囲まれ、「奥野先生が異動になるから、次は小泉、お前が行ってほしい」と告げられたのです。
半ば強制的な申し出(笑)でしたが、私はすでに神島に赴任する決意を固めていました。前任の奥野先生が築かれた、住民に深く溶け込み、生活に寄り添う医療。その神髄を引き継ぐことこそ自分の使命だと感じ、2009年、神島に赴任することにしたのです。
離島というへき地で、人々の暮らしを丸ごと診ることは、私の医師を志した原風景である“おばあちゃん先生”の姿にも通じているかもしれませんね。
初めての離島赴任、戸惑いと不安から信頼獲得へ
やはり赴任当初は、自分を受け入れてもらえるかどうかが不安でした。長年、ベテランの奥野先生が診てきた地域に若輩の医師が来たのですから、住民の方々がすぐに信頼できないのは当然のことです。最初のうちは、互いに少し距離感があったのを覚えています。
そんな関係性が変わったのは、ある高齢の男性患者さんの看取りを通しての出来事でした。
その患者さんは腎細胞がんの全身転移で、ほぼベッド上での生活でした。ある日、「息が苦しい」との訴えで呼ばれて行くと、患者さんの周りに親族と思われる方々が20人ほど。そんな中で診察を始め、まずは心不全を疑ったのですが、一向に改善しません。そこで、気持ちを落ち着け、再度診察したところ、どうやら胸水が溜まっている様子。正確な診断にはエコーが必要ですが、当時の診療所には装置がありませんでした。この患者さんとは「絶対に本土の病院には搬送せず、最後まで島で診る」と約束していたため、その場で胸水穿刺を決断しました。技術的にはそれほど難しくない処置ですが、居合わせた全員の目が自分の一挙手一投足に注がれる中で行うのは、想像以上に緊張します。あんなに汗をかきながら治療したのは初めての経験でした。
幸いにも胸水を抜くと、患者さんは「楽になった」と笑顔に。それを見ていた一同もきっと「この若い医者、なかなかやるな」と感じ、周囲に話をしてくれたのかもしれません。それ以来、医師としての私を信用してくれていると実感する場面が少しずつ増えていきました。

島を離れて「知見を広げる旅」
へき地医療は、普段は外からの目がほとんど入りません。そのため、ともすれば医師の独断や一人よがりの医療となってしまうリスクを孕んでいます。神島に赴任して数年経った頃の私は、「標準的な医療を自分は提供できているのだろうか」と自問するようになっていました。そこで、改めて標準的な医療を学び、他のへき地ではどんな医療が行われているのか知りたいと思うようになったのです。こうして、留守を大学の後輩に任せ、いったん神島を離れる決心をしました。
私の「知見を広げる旅」は、東京・赤羽の東京北医療センターから始まりました。ここでは総合診療のアプローチや、各科の標準医療の現在について、1年間かけて学びました。その後は地域医療振興協会のへき地支援部に所属し、短期派遣で、北海道から沖縄まで10カ所以上の施設を経験しました。さらにその途中で約3カ月、アメリカ・オレゴンにも滞在しました。
2年間、各地のへき地医療を経験して痛感したのは、自分の「ぬるさ」でした。神島よりもっと過酷な環境で奮闘する医師たちを目の当たりにし、「今まで俺は何をしとったんやろう」と打ちのめされると同時に、モチベーションも大いに高まりました。そして、吸収してきた多くの学びを鳥羽市の離島医療に還元すべく、2015年に再び神島へ戻ったのです。
現在は5カ所の診療所をローテーション
途中2年ほど神島を離れましたが、最初に赴任してから数えて16年。すっかり神島になじんだ感覚がありますが、現在、私は神島には住んでいません。その理由の1つが、人口減少です。ここ20年で約40%減少しています1)。患者さんの数が減ったことで、夜間、診療所に医師を常駐させる必要がなくなりました。数名の医師で複数の診療所を支える体制になったのです。
私の場合、神島には半日勤務も含めて週4日勤務、また、答志島の桃取、菅島、それに本土の鏡浦と今浦の合計5カ所をローテーション勤務しています。加えて、三重県医療保健部のへき地医療総括監として、月に2回、県庁にも出向いています。勤務する場所が日ごとに違うため、移動効率を考えて本土に住むことにしているのです。
鳥羽市のへき地医療は厳しい状況にあります。「このままではいつ破綻してもおかしくない。今のうちに何とかしなければ」と考えた私たちは、2020年に鳥羽市立の7つの診療所をつなぐ「バーチャル鳥羽離島病院プロジェクト」を構想しました。ここではオンライン診療を積極的に活用し、離島医療の課題解決に取り組んでいます。全国からの視察も多いこのプロジェクトついては、第2回で詳しくお話ししましょう。
1) 鳥羽市社会福祉協議会「神島 まちのカルテ」(2025年11月閲覧)
小泉 圭吾 先生
鳥羽市立神島診療所 所長
2003年、自治医科大学卒業後、三重県立総合医療センターにて初期研修。2005年、町立南伊勢病院 内科勤務を経て2007年、自治医科大学附属病院 感染症科・地域医療学教室。2008年、町立南伊勢病院 内科を経て2009年、鳥羽市立神島診療所 所長。2年間勤務したのち、総合診療医として国内外のへき地医療を支援。2015年、再び鳥羽市立神島診療所 所長として、現在に至る。三重県医療保健部 へき地医療総括監を兼任。